【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『凪へ吹く風』獺川浩

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 寿退社の反対はなんて言うんだろう。要するに離婚して退社する。詳しく言うと、離婚して居たたまれなくなって退社する。もっと言うとわたしのことだ。
 社内恋愛で結婚と離婚のコンボをキメると、こんなにも居心地が悪くなるんだと知った。彼とは部署も違うけど、どこに行ってもひそひそと声が聞こえてくる。結婚した時はみんな祝福してくれていたのに、離婚した途端に憐れみフィーバーだ。土俵に上がってもいない人たちに勝手にマウントを取られ、あることないこと言われた。
「旦那さんが浮気して……」
「いやいや奥さんが不倫して……」
「慰謝料目当てで……」
 実際はただの不和なのに、どこからこういう話になるのかまるでわからない。
 わたしは安息の地であるはずの家が、何より息苦しい場所になっていたことに耐えられなかった。心身ともに休まる場所を取り戻したかっただけだ。
 薄い職場付き合いの祝福がそりゃ本心だとは思わないけど、毎日そんな調子じゃさすがに疲れる。というかつらい。当の彼はなぜかノーダメージで、後輩の女子と仲良さげにしてるのをこないだ見かけた。この違いは何。
 まあ落ち着け。それよりもほら、新生活だぞ。喜べわたし。自由な一人暮らし再びだ。
 間取りは1Kで家賃は六万。築年数そこそこいってるけど、日当たりも良くないけど、上の階の人がたまにうるさいけど、なにより家にわたししかいない。なんと素晴らしいことか。
 だけどやる気が起きない。
 仕事も探さず、平日の昼間からプライムビデオとネトフリ三昧だ。
 働かなきゃとは思うんだけどね。身軽になったといっても、急に心機一転は難しい。じゃあいつ動くんだって話なんだけど、自分で思ってたより心がふにゃふにゃになってたらしい。
 流れに身を任せるったって凪だよ。なんの流れもない無風。海の真ん中に小舟がポツンと浮かんだままだ。いつまで風を待つ? 待ってれば吹くのか? 韓国ドラマを観ながら脳裏にこんなことばかり浮かんでは消える。
「うあー……」
 ごろんと横になり、クッションにあごをうずめた。新生活むずいな。いや何もむずくないけどむずいな。やるべきことはわかってるけど、二百二十万っていう微妙な貯金がわたしを甘えさせる。一年は余裕で持つからね。でも一年も休んだら再起不能になるんじゃないの。資格でも取る? なんの資格? 何がしたいの?
 だめだ。ちょっと気分転換しよう。
 のそのそと立ち上がり、クローゼットからモッズコートを取り出した。明るめのカーキで合わせやすい。こういう時はお気に入りの服を着て散歩でもしよう。
 家を出て、いつも行くコンビニとは逆方向に歩きだす。雲のない秋の空は高く、東京といっても都心から離れた住宅街には、涼やかな空気が佇んでいる。悪くない気分だ。
 角を曲がると、女子高生二人とすれ違った。そういえばもう学校終わる時間か。ずいぶん笑ってたけど、今の子たちにわたしはどう見えたかな。
 平日の昼間に外出していると、どういう顔をしていいかわからなくなる。OLが出歩く時間じゃないし、大学生と言い張れるほど若くもない。夜勤のフリーター面でいいんだろうか、でも働いてないし。主婦も嫌だし。とかうんぬん。
 実際わたしのことなんて誰も気にしてないんだけど、学生や会社勤めなら堂々としていられるっていうのもおかしな話だ。わたしは後ろめたいことは何もしてない。じゃあなんで会社辞めたのかって、そこまでわたしは強くないからだ。そうだよ。世の中の正論って人間の強度までは考えられてないんだよ。なのにみんなして平気な顔であれやこれやとまー嫌になるね。
 ていうか思ったけど、一人で生きられるほど強くないのに、他人と暮らすわずらわしさを知ってしまった今のわたしって詰んでる気がする。え、やばくない……?

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