【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『おしゃれな家』万野 恭一

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 よし、この辺だ。僕はブレーキを踏んでギアをバックに切り替える。そして右後方を見ながらゆっくり左足をブレーキから浮かす。車は再びそろりと動き出し、バナナのような軌道を描いて我が家の車庫へと滑り込む。車と左右の側壁との距離はちょうどいい。僕は車体が側壁と平行になるようハンドルをゆっくり戻しながらバックして、車全体がすっかり車庫におさまったところでギアをパーキングに切り替えた。
助手席で妻が小さく拍手した。 僕たちがこの家に来て一ヶ月。僕は初めて一発で車庫入れを決めたのだ。
 ふう、と一息ついて気がつくと、車の前に隣の高田さんが立っていた。高田さんはこちらに微笑みかけていた。僕は車を降りて、「こんにちは」と言った。高田さんも「こんにちは」と言った。
 高田さんは豊かな銀髪をオールバックにして、サングラスをカチューシャがわりにつけていた。真っ白な半そでのポロシャツを着て、紺色のセーターを肩にかけていた。日焼けした顔の頬や口まわりには無精髭が生えていて、それがガラスパウダーのようにきらめいていた。
 高田さんは、どうやら飼い犬の散歩でうちの前を通りがかったようだった。耳が長い、白毛に茶班のある小型犬だった。飼い主に似て、彫りの深い顔立ちだった。
 高田さんはとても魅力的な人だった。服装はもちろん、バリトン歌手のような低くて張りのある声での落ち着いた語り口だとか、オーケストラ指揮者のような悠然とした仕草だとか、そういう彼の内側から出る何か「余裕」のようなものが、彼をとても優雅に見せていた。
 僕は彼のファンだった。一体どうしたら彼のようになれるだろう。僕はそんなことを考えたりもした。
「大丈夫?」
 高田さんが僕の少し後ろを見て言った。振り返ると、妻がトランクから大きな買い物袋を取り出していた。僕は慌てて妻のもとに駆け寄った。
 荷物を玄関前まで運び、再び高田さんの方を見ると、彼は既に背を向けて歩き始めていた。彼は鼻歌を歌っていた。聞き覚えのあるメロディーだったが、曲名までは分からなかった。とにかくイタリアっぽい曲だった。

 僕と妻はほんの半年前に初めてこの土地を訪れた。この近くに住む妻の友だちに赤ちゃんが生まれ、僕たちはその赤ちゃんを見に車でやって来たのだ。そして帰りに偶然「売家」の看板が出ているこの家を見つけた。その日は折よく不動産屋の人がいて、内見できるようになっていた。妻が「見てみたい」と言ったので、二人で一緒に見ることにした。
 築四十年ということだったが外観はもう少し新しく見えた。壁や基礎に亀裂らしきものは見当たらない。雨どいも青竹のように瑞々しくて、どこも傷んでいなかった。
 板張りの廊下は飴色に磨きこまれていた。きっと水漏れも雨漏りも無かったのだろう。壁紙もどこも剥がれてきたりはしていない。
浴室だけは、さすがに「年相応」だった。床は砂利を模したタイル張りだった。バスタブの端は塗料がはがれ、そこから赤い錆びが染み出していた。
二階のベランダからの見晴らしはなかなかだった。この家は丘の頂上辺りにあったので、斜面に広がる住宅街を見下ろせた。色とりどりの無数の屋根が明るいモザイク模様を織りなしていて、その隙間から大きく育った庭木がところどころ顔を出していた。
僕たちはベランダでしばらくそんな風景を眺めていた。とても静かな場所だった。物音はといえば、小鳥のさえずりくらいだった。
「私、この家をお洒落にしてあげたい」
妻が宣言するかのように言った。僕は妻を見た。妻はまっすぐ前を見たままだった。
「それってこの家が欲しいってこと?」
 僕は念のために訊いてみた。妻は頷き、「お洒落にしたいの」と言った。

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