【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『ハハダンジョン』宮沢早紀

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた9月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

「えぇ……あなたが全部背負うことないじゃない」
 真規子の「えぇ……」を聞いた瞬間、やっぱりな、と貴恵は目をつぶった。
バブルの頃にやっとの思いで見つけたマンションだった。今じゃとても考えられない額だった。途方もなく高い金利だったから、お父さんの退職金もほとんどがその返済にあてがわれた。
そんな苦労話をくりかえしくりかえし聞かされていたため、真規子に反対されるであろうことは貴恵の予想通りだった。以前にこんな新築マンションが売り出されているのだ、とモデルルームの写真を見せた時は好感触だったのに、ローンを、それも貴恵が一人で組むと知った途端にこの反応かと冷静に考える余裕すらあった。
真規子の中で家を買うという行為は、ローンを組むことも含めて、それはそれはネガティブなものとして記録されているのだった。
「俊一くんは? 共稼ぎなんだから、ペアローンにすればいいじゃない」
「生活費は全部、俊一に負担してもらってるから」
「やっぱり、休職したのが響いてるの? あなた一人で組むなんて……」
「とっくに仕事復帰してるじゃん。いつの話?」
「それは知ってるけど……ほら、貴恵は将来出産とか子育てで休むかもしれないでしょ?」
「決めつけないでよ。子どもだって産むか、そもそも産めるかだってわからないんだよ?」
「わかってるわよ、わかってる。俊一くんだって育休を取るかもしれないものね。でも、大丈夫かしら。ほら、しょっちゅうゲームやってるみたいだし……」
「それは関係なくない?」
 貴恵はあきれて小さくため息をついた。いつも以上に真規子と会話がかみ合わない。
 扉の向こうでは、確かに今日も俊一がゲームをしていたが、残業が多い貴恵に代わって家のことはほとんど彼がやってくれていることもあり、貴恵としてはゲームくらい自由にすればいいと思っていた。それに、家での過ごし方について一緒に暮らしているわけでもない真規子にとやかく言われる筋合いはないとも思った。
 一呼吸置き、先ほどより落ち着いた声を意識しながら貴恵はゆっくりと伝える。
「しっかり働きつづけるから大丈夫。今の会社は女でもしっかり給料がもらえるし、ちゃんと続けられる環境だよ。ちゃんとローンも払えるよ」
 働きつづける、続けられる。
一体、何だっただろう。どこかで聞いたことのある言い回しだと、電話中ではあったが、貴恵は記憶を手繰りよせる。
「今日はもう遅いし、いいわ。焦らずゆっくり決めてよ。それだけ。じゃあね」
 疲れた声で真規子が電話を切った後、貴恵はどっと疲れてしまった。これ以上、真規子としゃべり続けたらイライラが募り、開放感で満たされるはずの金曜の夜が台無しになるところだったと、そこにはホッとする気持ちも含まれていた。

眉間のあたりを指でほぐした後、貴恵はハッとする。
働きつづける、続けられる。
この、どこか聞き覚えのあるフレーズはかつて家に届いていた通信教育のDMにあった言い回しだ、マンガに出てきた台詞だ。あれだ。あれに似ていたのだ。
母親の反対を押し切って通信教育を始めたい、始めるのだと主人公が主張するマンガだった。主人公は女だったり男だったり、その時々で違ったが、マンガに出てくる小学生も、今年で三十二歳になる貴恵も、同じようにして母親とぶつかっていることを思うと何だかおかしくて、貴恵はふふっと声を出して笑った。

笑ってから、貴恵はこれまで幾度となく真規子と衝突してきたことに思いを馳せる。最も激しくぶつかったのは大学選びの時だった。
高校二年生の秋頃、大学受験の志望校を決める面談があり、面談が予定されている二週間ほど前に晩ごはんを食べながら貴恵は行きたいと思っている大学の名前を素直に真規子に打ち明けた。貴恵の学力ではかなり頑張らないと入れない、地方の公立大学だった。
 貴恵は東京で生まれて東京で育ったが、その大学でしか勉強できないカリキュラムがあるというのが一番の志望理由で、貴恵はそれを丁寧に説明した。

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