【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『母の思い出』太田 純平

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた7月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 竹に囲まれた細い路地を抜けるとその家はあった。二階建ての木造建築。黒柿色の壁には無造作に蔦が絡みつき、二階へ続く階段はところどころ朽ちている。
「ここに住むのォ?」
 僕は建物を見上げながら唖然とした。「そうよ」と母は言う。「いいから上がりなさい」と父。五歳になる妹は母の手をぶらんぶらんと弄んでいる。
「どうして玄関が二階にあるのさァ」
 唇を尖らせる僕を後目に母と妹が階段を上って行く。ギィ、ギィと踏みしめるごとに嫌な音が鳴った。
母が玄関の鍵を開けて扉を支える。妹と中へ入った僕は思わず「うわっ!」と声を上げた。玄関の網戸に蜘蛛の巣が張っていて、それがベタッと腕に絡みついたのだ。「なによもう蜘蛛の巣くらいで」と母は淡々と靴を脱いだが、神経質な僕は何か付いてやしないかと何度も身体をくねらせた。
「ほら早く、蚊が入るから」
 母に促されるまま玄関の正面にあるリビングに向かった。もわっとした夏の熱気に母がすかさず窓を開ける。ふわっと揺れるレースのカーテン。
「ハイ。そしたらまずは、おじいちゃんとおばあちゃんに――」
母はそう言いながら隣の仏間に僕と妹を案内した。仏間には半年ほど前に亡くなった祖父母の遺影が飾られている。二人とも続けざまの病死だった。
 仏前で家族四人、手を合わせる。この家はもともと祖父母の実家で、母の生家でもあった。空き家となったこの家に引っ越しが決まったのは、ほんの二か月前のことである。小学生の僕は転校せざるを得なくなってしまった。
「さて、と……」
 やることが山ほどある、といった様子で父と母がリビングに戻る。妹は仏具の鈴が気に入ったのかチーンと鳴らしてはその余韻を楽しんでいる。僕は仏間の居心地が悪いので両親の後を追った。決して壁に掛けられた般若のお面が恐ろしかったからではない。
リビングに戻ると所在なげに辺りを見て回った。壁際には食器棚や冷蔵庫。部屋の中央には要らない物で溢れ返った四人掛けの食卓。中身の入っていない調味料の瓶やテーブルクロスに引っ付いた輪ゴムやクリップなど、祖母はいわゆる「物を捨てられない人」だった。
 特に印象的なのは、壁際の一角を占める幅三メートルくらいの収納棚である。電話台も兼ねていて、固定電話の周りにはスーパーのチラシを再利用したであろうメモ紙が専門店でも開けそうなほどストックされている。あとは薬の類。これまでに処方されたあらゆる錠剤や粉薬がむき出しに置かれている。使い古した鉛筆や糊といった文房具もほとんど原形をとどめていない。空になったセロハンテープの輪っかまで残されている。
 それらを嫌悪感たっぷりに眺めていた僕は、すぐに飽きて母に訊いた。
「ところで僕の部屋はどこ?」
 母は下だとそっけなく答えた。僕は一人で廊下に出ると、すぐ右手にあったコの字型の階段を下った。
一階の廊下に出ると、正面と左右に扉があった。正面は和室の襖で、左右は板のような木製の扉だった。近かったので右手の扉を開けると、そこはなんと汲み取り式の便所であった。いわゆるボットン便所である。さすがに近年は使われず物置として機能しているようで、中には埃まみれのテーブルや椅子などが積み上げられていた。
 和室はどうやら母と妹が使うようだから、残るは階段を下りて左手にある扉だ。僕はこの家や引っ越し自体に不満たらたらだったとはいえ、やっと自分の部屋が持てることには多少の期待感を抱いていた。しかしその希望は扉を開けるなり絶望へと変わった。
「――!?」
 部屋の中を見た瞬間、僕は呆然と立ち尽くした。まず二段ベッドが二つあり、これが部屋の半分を占めている。後はほとんどゴミの山。カビで黒ずんだ冷蔵庫に刀でも入っていそうな桐箪笥。四段重ねになったプラスチックケースには祖父母が着ていたであろう衣服がぎっしり詰まっている。羽根が壊れた扇風機に、梅酒を作っていたと思われる大きな保存瓶――。
 僕は叫びそうになるのを抑えながら憤然と二階へ上がった。
「お母さん!」
「なーに?」
「部屋かえてッ!」
 僕の渾身の訴えはすぐに却下された。母いわくあの二段ベッドに大人が寝るのは難しいという。
「いいじゃない大きい部屋なんだから」
 その母の一言を聞くなり僕はハッとした。確かにそうだ。自分好みに片付ければ、これ以上ない僕の「城」になる――。
僕の築城計画はすぐに動き始めた。幸い両親はずっと二階にいて一階には下りて来なかった。
 僕はまず、この溢れんばかりの物を全て捨てようと心に決めた。本当は最初に冷蔵庫を捨てたかったけど、さすがに重いので断念した。手始めはよく分からない提灯とかガラスケースに入った気味の悪い人形などだ。この部屋にはスライド式のガラス戸があって、そこを開くと直接、裏庭に出ることが出来た。僕は要らない物をひたすら裏庭に搬出した。捨てたゴミは夜中とか、隣の母が寝静まった頃を見計らってこっそり捨てに行くつもりだったのだが――。

 × × ×

 翌朝。僕は目が覚めるとすぐに二段ベッドの上段から手を伸ばしてカーテンを開けた。窓からは裏庭が見える。僕が放り投げた物が朝陽を浴びてキラキラと輝いていた。
「しまった!」
僕は慌てて飛び起きた。深夜に起きて捨てるつもりが、息を潜め過ぎてウッカリそのまま寝てしまった。
 僕は外のサンダルを履いて裏庭に出ると、両手にゴミを抱えて寝ぼけ眼のまま走った。ゴミ捨て場の位置は家の細道を出てすぐのところ。僕は何往復かしてゴミを全て捨てきると、雑草の伸びきった裏庭の中で深呼吸をした。要らない物を捨てて部屋を綺麗にする。なんと清々しい朝だろう。
しかし異変が起きたのは、朝ご飯が終わって、今が夏休みであることをリビングで存分に味わっている最中であった。
固定電話が鳴って母が出ると、最初は笑っていた母の表情が途端に険しくなり、やがて平謝りに変わった。
「申し訳ございません……えぇ、えぇ……本当に申し訳ございません……」
 電話を切るなり、母は僕を睨み叫んだ。
「アンタ! 今日ゴミ捨てたでしょ!」
 ゴミを捨てて何がいけないのか。僕がぶつぶつ反論すると、母は烈火のごとく僕を叱った。
「アンタ! 分別せずに出したでしょう!」
「ぶ、ぶんべつ?」
「お隣さんから苦情きたわよ!」
 確かに分別はしてなかった。そもそも分別という概念が頭に無かった。母の怒声を聞くに、どうやらお隣さんが親切にも僕が出したゴミを分別してくれて、回収できなかった分はその家が持ち帰ってくれたという。祖父母が住んでいた時代からの付き合いだからこその温情だった。
「今から謝りに行って来るからアンタも来なさい!」
 分別しなかったミスは認めるが、それでも僕は首を縦には振らなかった。部屋を片付けて何が悪いのさ、という態度でさえあった。
 その様子に母は呆れ返って、「あぁそう」と一人で行ってしまった。

 × × ×

 しばらくして、両手いっぱいにゴミ袋を持った母が帰って来た。額には大粒の汗。きっと持ち切れなかった分は外に置いてあるのだろう。
 母が玄関に腰掛け、ゴミ袋の結び目をほどいて中身を展開し始めた。僕は玄関とリビングの間にある暖簾の隙間からそんな母を窺っていた。
 僕が捨てた物を一つ一つゴミ袋から出していく母。さすがに決まりが悪くって、僕は食卓の椅子から立ち上がるなり玄関へ向かった。そしてまだ外に置いてあるはずの重たいゴミを持って来ようと、靴を履いていたちょうどその時だった。
「アンタにはガラクタでもねぇ、私には大切な思い出なんだよ?」
 母がぽつりと言った。振り向いて母の顔を見る。額の汗を拭う母はどこか弱々しかった。僕は母の言葉に動けなかった。靴箱の上に鎮座している達磨の置物がまるで事態を見極めるようにこちらを睨んでいる。
 悪いことをしたという実感が初めて胸に込み上げてきた。だけどごめんなさいの一言がどうしても言えなかった。それで、どうしていいか分からなくなって、僕は母の「どこ行くの?」という声にも答えず、逃げるように家を飛び出して行った。

 × × ×

日が暮れるまで家には帰らなかった。とはいえ財布など何も持って来なかったから、公園や商店街をうろついて時間を潰した。
 夜が近づいても家に帰るのが怖かった。だから近所の神社へ行った。蚊に刺されながら境内の階段のところで途方に暮れていると、不意に声がした。
「やっぱりここか」
 顔を上げるとそこには父が立っていた。半袖のワイシャツに背広のズボン。仕事帰りだった。
「母さんから連絡もらってさ」
 父が隣に腰掛ける。帰ろう、と父は言ったが、僕は頭を振った。母に悪いことをした。それは自分が一番よく分かっているのに。
「一緒に謝ろう」
やがて父は僕の腕を引っ張り上げて立たせた。どうやら父は経緯を知っているようだ。
僕はうんともすんとも答えなかった。それでも父が歩き始めるから、ついて行かないわけにもいかなかった。やっと帰れる、という安堵もどこかにあった。「よく見つけたね」と父に言うと、お前は昔から家出癖があるからなと頭をぐしゃぐしゃされた。
 重い足取りで玄関前の階段を上った。父も一緒だからギィギィという音が一段とうるさい。きっと家の中まで響いて、帰って来たことがバレちゃうなと思った。
「ただいま~」
 父だけが言って玄関に入った。おかえりと母が出て来ると、父は「ほれ、何か言うことがあるだろう」という具合に僕の背中を軽く押した。だけど僕はその期待に応えることは出来なかった。僕は靴を脱ぐと何も言わずにお風呂場へ向かった。そして考えることを放棄するように服を脱いだ。
 冷たいタイルの床に足をつけてシャワーの蛇口をひねった。しかしいつまで経ってもお湯が出て来ない。そりゃそうだ。給湯器の電源を点けていないのだから。と、いうことに気付いた頃に、ちょうど脱衣所からピッと給湯器の音がした。ガラス越しに母だと分かったが別にありがとうは言わなかった。
身体を流した後、湯船に浸かった。きっとタイミング良くお湯が沸いていたのは仕事帰りの父のためだろう。
浴槽の中で、古い風呂桶とか椅子とか、掃除用のバケツとかブラシとか、そういう何でもない物を見ながら、ふと考えた。これはおじいちゃんおばあちゃんだけじゃない。うちの母親が子供だった頃も使っていた物なんだろうなァと。
それを思うと母のあの一言が余計に僕の胸を締め付けた。僕にはただの「物」でも、母には大切な「思い出」だったのだと――。
このまま湯から上がりたくなかったけど、暑さには勝てずに浴室を出た。考えてみればタオルも着替えも何も用意してこなかった。しかしそれはちゃんとそこにあった。ドラム式の洗濯機の上にバスタオルだパンツだが畳んで置いてある。母は偉大だと思った。そんな母を悲しませた息子。僕は自分の愚かさに沈みながら身体を拭いて、パジャマに袖を通した。
 続けて髪を乾かそうとした時、何となくドライヤーの側面に目がいった。見ると達筆な字で「××年×月購入」と書かれている。きっと祖母の字だろう。母から、祖母は買った物の大半に購入年月を記入すると聞いたことがあった。確かに、僕の部屋にあった冷蔵庫の裏側にも謎の年月が書かれていた。僕が向こう見ずに捨てたあらゆる物にも――。
縦長の化粧台の上にドライヤーを置いてそのまま鏡を見つめた。鏡の前の男がお前はクズだと言っている。あぁそうだよと心で呟く。そうやって自分を責めることでしか罪悪感から逃れられなかった。
出し抜けに母が来た。緊張する僕とは対照的に母はケロッとしていた。
「出たの?」
「次お父さん入るから」
「給湯器消さないで」
矢継ぎ早にそう言うと、母は僕の脱いだものを片付けてくれた。腰を曲げて甲斐甲斐しくしている母に、僕はゴメンと絞り出すように言った。母はこちらに顔を向けると「いいの」と短く答えた。さすがにこんな謝罪じゃあダメだと思って、僕は自分が悪かった点を言語化しようと必死に言葉を探した。
「……捨てちゃって――」
結局、その一言しか声にならなかった。再び「いいのよ」と母。それからは言葉よりも先に熱いものが込み上げてきて、ヒクヒク泣くばかりで何も言えなかった。母はそんな僕を包み込むように優しく抱き寄せると、ヨシヨシと腕の辺りをさするように慰めながら僕に言った。
「思い出はこれから作ろッ」

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