【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『手を伸ばした先』川瀬えいみ

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた7月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

大学入学と同時に上京し、一人暮らしを始めて十三年。清く正しい四年間の学生生活と、清く正しい九年間の会社員生活が、その内訳。強固な独身主義というわけじゃないけど、私は、気楽な都会のおひとりさま暮らしを楽しんでた。
 早くに夫と死別した私の母は、三歳の私を連れて再婚。継父との間に子どもが生まれた途端、弟につきっきりになり、私は放っておかれた。
 そういう家庭で育ったせいか、私は結婚に夢を見られるオンナになれなかったの。
 田舎と違って都会では、三十を超えた未婚女性なんて珍しくもない。私の勤務先では、むしろ多数派だったりする。
 都会のおひとりさまは、周囲に似たようなお仲間が大勢いることがわかっているせいか、不安や寂しさを感じることもない。『毎日会社に行って、定められた時間に働く』というルール以外、縛るもののない生活。そこには、ほどよい自由がある。
 私は、自分を幸福な人間だとは思っていなかったけど、不幸な人間だとも思っていなかった。私の暮らしは、極めて平穏だったから。
 その平穏な暮らしが、絶妙な社会のバランスの上にかろうじて成り立っている、とても危ういものだということに、私が気付いたのは、私が勤めている会社に在宅ワークというシステムが導入されてまもなくのことだった。
 出社不要の在宅ワーク開始によって、私の暮らしは一変した。暮らしの変化は、私の気持ちをも大きく変えた。
 これまでは、会社に行けば、否応なしに人に会って会話ができた。
『おはようございます』『いい天気だね』『ビルの中で仕事しているのがもったいない』『ほんとほんと』
 そんな他愛のない会話が懐かしい。
 在宅ワーク開始から半月も経つと、私は、苦手な上司との会話すら、恋しく感じるようになっていた。
 週に一度のオンラインによる業務進捗ミーティングでは、平社員の私は画面の片隅に映像非表示アイコンが小さく映るだけで、発言も求められない。リーダーが必要事項の報告を済ませると、オンラインでのミーティングはさっさと終わる。
 往復二時間の通勤時間と労力が不要になったのは有難いことなんだろう。でも、一人暮らしの私には、あのオフィスには、二時間という時間と労力を使って通うだけの価値があったのよ。あそこには、社会や人との繋がりを実感できる安心感があった。

 在宅ワーク開始から一ヶ月後のある日、就寝前に弾みで口にした『よいしょ』が、その日に発した最初で最後で唯一の声だったことに気付いた私は愕然とした。
 そして、不安で眠れなくなった。
 頭まで布団をひっかぶって、私は現況について考えた。
 私は一人。
 私と会わなくても、私と言葉を交わすことができなくなっても、誰にも何の不都合も生じない。会社の同僚の中には、私の電話番号やメールアドレスを知っている人は何人もいるのに、誰も私に連絡してこない。
 私は、たった一人。
 七百キロも離れたところにいる家族なんて、隣り町の他人より遠い人。
 私は一人。
 この地球には八十億も人がいるのに、私は一人ぼっちなんだ。
 友人たちの陰謀によって十四年間の獄中生活を強いられた巌窟王。夏目漱石の『こころ』に登場する先生。歴史的ヒーロー誕生の瞬間、アポロ十一号の中で全人類に存在を忘れられていた宇宙飛行士。
 募る不安の中で、私は、自分より孤独な人を求めて、記憶の海に飛び込み、懸命にもがいた。何でもいいから何かを真剣に考えていないと、自分の境遇に同情して泣いてしまいそうだったから。
 でも、誰の孤独も、今の私の孤独に比べたらましに思えた。
 だって、彼等の孤独には深い意味があったけど、私のそれは全く無意味な孤独だから。
 私は、真に一人だった。

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