【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『ケハイ』香久山 ゆみ

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた7月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

――また。
 誰もいないはずの部屋から気配がする。トントントントン。音が聞こえる。私はそっと目を閉じる。古い家、古い部屋のあちこちに感じる気配。そっとそっと受けとめる。取り溢してしまわぬように。
 もちろん怖くなんてない。けれど、その気配に触れようとすると閉じた目から自然と涙がこぼれる。
 この家に暮らして早二十年以上だけれど、気配を感じるようになったのはこの一年程だ。父や母も感じているのだろうか。なんとなく聞けないままでいる。両親は不思議に思っているかもしれない。いい齢した娘が、朝起きた時、帰宅した時、食事中や、ふとした時に、じっとあらぬ方を見て物思いに耽っていることを。いえ、それとも両親もやはり気付いていて、それでなお素知らぬ顔で日々を捲っているのかもしれない。

 ある日、父の口から建替えの話が出た。定年退職を期に老後も見据えてリフォームしたいのだと。
 私は反対した。「お前はいつか結婚して家を出るかもしれないだろう」と言う父に、「いやだ私はずっとこの家にいる。このままの家にいる」と子供みたいに駄々をこねた。だって、消えてしまうかもしれない。家を建替えると、今は家中に感じるこの気配が消えてしまうかもしれないじゃないか。
 どれだけボロボロになろうが傾こうが、私は今のままの家を変える気はないし、動くつもりもない。なのに、建替えなどと言い出す両親が信じられない。彼らはこの気配を手離してしまってもいいというのか。小さな妹の気配を。

 十年前、あの子をうちに連れてきたのは、父だった。
 父が家族に話を切り出したのは、彼女を引取る前日だった。母も私も大反対した。「誰が面倒を見るのだ」「そんなのに家の中をうろつかれては困る」「きっと家中汚すだろうしぐちゃぐちゃにされる」「家族旅行だっていけなくなる」当時思春期真っ盛りで家族と出歩くことさえ嫌がっていたくせに、へいきで主張した。いつもは女連に負ける父だが、この時は頑として譲らなかった。「もう話をつけてあるから」きっぱりそう言った。
 翌日、まだ不満げな母を連れて父は家を出た。小さな妹を引取りにいくために。私はひとり家で留守番をした。宿題を開いていたけれど一頁も進まない。いつもの家が妙に広くよそよそしく感じる。連れてきたって相手しないんだから。うっかり懐かれでもしたら困る。この部屋にだけは絶対入れない。私の居場所は私が守るしかない。
 そんな決意は、彼女の登場とともに打ち砕かれた。
 数時間後、両親は小さな女の子を連れて帰ってきた。玄関ドアの開く音に、私はそっと部屋から出て、足音を立てずに階段を下りて、階下を覗いた。見るだけ。新しい同居人の顔を確認するだけだ。
母の腕に抱かれたその子はあまりにも小さかった。あまりにも小さくて、かわいかった。家の中で雷に打たれたのは、後にも先にも人生でその時だけ。

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