【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『我が家のまどゐ』路 真菰

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた7月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

「この間の台風でやられたんと違うかねえ」
「いやあ、その前からあかんかったんやろう」
「見事なシミだねえ」
 大人が三人、髪が擦れるほど頭を突き合わせ、部屋の一角を見上げる。居間の板張りの天井の一隅が、畳半畳ほどの真っ黒なシミになっているのだ。誰が見ても盛大な雨漏りだとわかる。
「築何年だっけ」
「母さんが八つでここに越してきた頃で、築四十年やっておじいちゃんが言うとったから…」
 もう百年近いではないか。
「やっぱり人が住まんようになった家は痛むのが早いのう」
 父は疲れ切った家を労うように、そばの木柱を二度撫でた。

 祖父母の家を取り壊す。父と母がそう決めたのは、昨年のちょうど今頃だった。
 祖父を見送った祖母が、後を追うように亡くなってからもう十五年が経つ。家主が居なくなり、空き家のままだった古い平家は、壊すのも忍びなくて長くそのままだった。
 しかし、昨年の風雪で屋根瓦が飛び、家も些か傾いた。何かあってからでは遅い、とついに取り壊しを決意したのはいいが、その明確な日取りを決めぬまま、ずるずると年を越した。
 そこに、先週の台風だ。ついに屋根に大穴が開き、今は染み出した雨が天井裏を伝い、天井板の継ぎ目から床へと滴り落ちるほどだ。
「思い出深いものだけでも持ち出そう」
 とうとう父がそう言い出したので、両親の梃子として久方ぶりに祖父母の家に足を踏み入れている。

「あらあ、この障子はついに最後までこのままやったねえ」
 ふいに母が納戸の脇でしゃがみ込んだ。居間の続き間にある障子戸を眺めているらしい。背中からひょいと覗き込むと、すっかり黄ばんだ障子紙が、ちょうど子供の背丈の位置だけ見事に破れ、蜂の巣のようになっている。
「あんたと雛子が張り替えても張り替えても指突き入れて破るもんで、もうこのままでええ、てじいちゃんが諦めて」
 雪見のついた欅造りの立派な障子戸なのに、と母が恨めしそうに言う。そう言えばそんなこともあったな、と懐かしいような罰が悪いような感じがして、そそくさとその場を離れた。

 隣の奥室へ逃げ込むと、こちらでは父がまたぞろ柱を撫でている。触れているのはこの家の大黒柱だ。切り出したままの檜を使い、かつては飴色だったであろうその一本だけが、時を経て真っ黒く光り、だだっ広い居室の中で存在感を放っている。
「おい、こんなところに傷なんてあったか?」
「え?」
 父が柱の表面に目を凝らしている。同じように近づいて、あっと声をあげそうになった。中央よりやや下の方に、鋭角な何かで引っ掻いたような細く長い傷が、柱の黒を割くように斜めに走っている。その傷に覚えがあった。
「これ、私がつけた傷だ」
 思わず呟くと、父が怪訝そうに何をぶつけたのだと聞いてくる。
「…さし」
 消え入りそうな声を、父が耳聡く拾う。
「物差し?」
 そう、物差しだ。確かあの日は、
「ばあちゃんと喧嘩して」
 六つの時だ。誰かに話すにはあまりにも幼稚で恥ずかしい。
 昔、祖父母宅の近くには、鯉のいる澄んだ綺麗な溜池があった。そこに毎日餌付けをしにいくのが小さな私の日課であり、ちょっとした楽しみだ。鯉がいるのに蟹池と呼ばれていたその池に、その日私はどうしても祖母と行きたかった。しかし、まだ幼く手のかかる妹が朝からぐずっていて、世話に追われる祖母に「後で」と言われたきり、その約束を半日も反故にされていた。そのことに、私は酷く腹を立てた。

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