【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『月の舟』吉岡 幸一

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた7月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 蜘蛛の糸を縒り合わせたような薄い雲が夜空に浮かぶ月を包み込んでいる。
 皿のように細い月は溜まった光をこぼさないように、春の海に広がる空に貼りついている。
 空港の近くにある海浜公園のベンチに背中をもたれかけながら、若さの端にたどり着いた男と女が並んで月を見あげている。
「月が綺麗だね」と、男が言うと「きれいな月ね」と、女が答える。
 何ということのない会話だが、ふたりは沈黙に耐えることが苦しいように当たり障りのない言葉を探している。
 月はふたりの声が聞こえるのか時おり輝きを増しては覗きこむように瞬いてみせる。薄雲は好奇心いっぱいの星々の視線を隠すように空の端の端まで伸びている。
「いよいよこの土地で新しい生活をはじめるのね」
 女は頬についた髪の毛をつまんで取りながら言う。
「自由な時間がとれる連休中に引っ越そうと思ってね」
「故郷で生きていく覚悟はできたのかしら」
「覚悟なんてできてないよ。でもこの公園にきたのはよかった。こうやって会えて、一緒に月を眺められたんだから」
「覚悟は大切よ。あなたが前に進んでくれたらわたしも嬉しいから」
「嬉しいか……」
 男はため息を隠しながら言う。
 ふたりは会話をしながらも互いの顔を一度として見ていない。
 夜の公園といっても周りには僅かな樹々しかなく、月の明かりも十分に届く。けっして顔が見えないほど暗いわけではないが、空の月ばかりを見ている。
「あ、見て。いま月から魚が跳ねたわ」
 女は月を指さすと身体を横向きにしてはじめて男の顔を見るが、瞳ではなく唇を見ている。
「月に魚なんているわけがないだろう。兎ならいるかもしれないけど」
「本当よ。魚が跳ねたの。それもすごく大きな魚が、お皿の底になっているような所から真上に跳ねたのよ」
 女は真面目な顔で言う。
「本当に魚だ」男も気づいて「焼いて食べたら美味しいかな」と声をあげる。
「だめよ、食べたりしたら。それより海のように大きな水槽で飼って眺めたいわね」
 ふたりは抱えていた重い荷物を下したようにふいに笑いだす。笑い声は細やかな夜の空気に溶け込んでいく。
 男は背もたれのあるベンチから飛び降りると、ズボンのポケットの膨らみを確かめる。掌に収まる固い感触が伝わってくる。
 告げるのなら、笑い合った今このときしかない、と思っているように噴きでる汗を握りしめる。
 女も男に合わせるかのようにベンチから降りると、服の上から腹部の膨らみを撫でて、すぐに手を離す。透き通った腹部とその奥で眠っている暖かな塊を確かめるように、二度手を当ててその膨らみを押してみる。
 話すのなら、いまこのタイミングしかないと考えているように青白い唇を噛む。
「実は伝えたいことがあるの」
「僕も言いたいことがあるんだ」
 女と男は同時に言うと、口に出してしまったことを後悔したかのように黙りこくってしまう。
「あなたから先に」「いや、君から先に」と、譲り合いながら戸惑っている。
 きれいに刈り取られた芝生は風を滑らせている。その上をどこからやってきたのか首輪のつけられた柴犬が全速力で駆けていく。遅れて飼い主の老人が息を切らせながら追いかけていく。転びそうになりながらも転ぶことがなく、海を泳ぐように走っている。
 一度だけ振りむいた犬は女の方をみると、怯えた目をして一声吠えたかとおもうと、尻尾をまるめて逃げていく。
 飼い主の老人は吠えられた女ではなく、男の方を見て丁寧に頭をさげると、逃げる犬を追いかけていく。

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