東京と並んで日本を代表する大都市・大阪。2025年に開催される大阪万博が注目を集めていますね。江戸時代には「天下の台所」と呼ばれ商業の中心地でもあり、多彩な上方文化を生み出した土地でもあります。そんな大阪にはどのような難読地名があるのでしょうか。今回は、大阪の難読地名中級編をお届けします。大阪に住んでいる人、勤務している人もそうでない人も、ぜひ挑戦してみてくださいね。

内代町(大阪市都島区)

内代町は、大阪市都島区の閑静な住宅地。大阪メトロ谷町線の野江内代駅があります。野江内代駅は難読駅名としても有名。住宅とアットホームなお店が建ち並ぶ昭和の面影を残す地域です。

↓その答えは?

読み「うちんだいちょう」

1702年(元禄15年)に作成された当時の村名や領主名が記された元禄郷帳に「うちだい」と読み仮名が振られていますが、1701年(元禄14年)に刊行された「摂陽群談」には、一般的には「うちんだい」と呼ばれていたと記されています。内代は、1643年(寛永20年)徳川氏代官の支配地になったことから、こう呼ばれるようになったといわれています。

現在の内代町には、その中心に内代小学校と内代公園があり、都会の一画に位置しながらも落ち着いた町です。スーパーや商店などがほどよく並び、日々を心地よく暮らせそうな町です。ちなみに、前出の野江内代駅は「のえうちんだい」駅と読みます。

毛穴町(堺市中区)

毛穴町は、石津川が中ほどを通る住宅地が広がる地域です。思わず「けあな」と読んでしまいそうですね。

毛穴町はだんじりでも知られます(写真はイメージ)


↓その答えは?

読み「けなちょう」

毛穴町は、古くは「毛名村(けなむら)」と呼ばれていました。1312年(正和元年)の文書にはすでに「毛穴」と記載されています。また、1605年(慶長10年)「和泉国絵図」には「けな村」と記されていますので、当時から「けな」と呼ばれていたようです。

この地を毛穴と呼ぶようになった経緯は諸説ありますが、一説にはこの地を統治していた豪族「毛穴氏」にちなんでいるといわれています。

毛穴町はだんじりで有名な町。2017年に新調されただんじりは、見事な手彫りの彫刻が施され、圧巻です。だんじりのはっぴにも随所にこだわりをちりばめており、粋な町民性がうかがえます。

 

遠里小野(大阪市住吉区)

遠里小野は、南海電鉄の我孫子前駅がその中心にある地域。熊野街道が中心を縦断し、古くから交通の要衝であったことがうかがえます。

江戸時代に菜種油の産地として栄えた遠里小野(写真はイメージ)


↓その答えは?

読み「おりおの」

昭和初期までは、「うりうの」と呼ばれることもあったそうです。
遠里小野は、姫瓜の産地であったため、「瓜生野」と呼ばれていましたが、なまって「おりおの」になったといわれています。1701年刊の「摂陽群談」には、「宇里宇野村(うりうのむら)」と呼ばれていたと記されているとのこと。「遠里小野」の字をあてるようになったのは、近世以降と考えられています。

遠里小野は万葉集にも登場していますが、その読みは「とほさとをの」となっており、近世近くになって、「うりうの」を「遠里小野」にあてたのではないかと考えられています。

遠里小野遺跡からは、平安時代から室町時代にかけての人々の暮らしぶりが分かる遺物が発掘されました。当時は高価だった、中国製の磁器や立派な建物の遺構が発見されていることから、有力人物が住んでいたと考えられています。

遠里小野は、江戸時代に菜種油の産地として栄えました。菜種油は、菜の花の種が原料の油で、種を搾って油を抽出します。遠里小野の油は、14世紀の終わり頃にはすでに商人が売り歩いていたとのこと。現在も、当時の文化を継承すべく、遠里小野地区の有志が育てた菜の花で作られた菜種油で、「住吉大社」の150基以上の灯籠を灯すというイベントが開催されています。

毛人谷(富田林市)

毛人谷は、富田林市のほぼ中心に位置する墓地や「毛人谷城跡」がある見晴らしのいい地域。

↓その答えは?

読み「えびたに」

毛人谷の由来は、古代蝦夷人が住んでいたからとする説があります。蝦夷はえみし、えぞと呼ばれ、7世紀以前は「毛人」と書かれていました。蝦夷、毛人は大和政権に属さない東国に居住する人々のことを言いました。
毛人は「えびす」とも呼ばれていたので、毛人谷を「えびたに」と読むのは、当時の人々にとっては自然な流れだったのでしょう。毛人谷には、「毛人谷城跡」があり、楠木正成が設けたといわれる城で、富田氏の拠点であったと伝えられています。

現在の毛人谷は、ほとんど住宅はなく、「西山浄苑」という広大な墓地と、「毛人谷城跡」とため池などがある地域。毛人谷城は発掘調査が進められており、古墳や墓などが発掘されています。

■道修町(大阪市中央区)

道修町は、医薬品産業の発祥の地といわれ、薬の町として知られる地域。古くから薬問屋が軒を連ね、現在でも製薬会社などのオフィスが建ち並びます。

道修町に今もたたずむ旧小西家住宅


↓その答えは?

読み「どしょうまち」

道修町はかつて、「どうしょうまち」と読んでいたものがなまって、「どしょうまち」になったと考えられています。道修町という名前になった由来は諸説あり、正しい由来は分かっていません。一説によれば、この地に「道修寺」という寺があったため地名になったとのこと。また、北山道修という医師がいて、そこに薬屋が集まったからという説もあります。さらに、道修谷と呼ばれる地名に由来するともいわれています。1588年当時の文書では道修町という記載があり、場所は定かではないものの、地名は存在していたようです。

さて、道修町は広く知られる薬の町。寛永年間に小西吉右衛門が、道修町で薬種屋を開業したことが薬の町の始まりといわれています。薬種とは、薬の材料となるもので、きぐすりともいいます。当時は主に漢方薬の原料のことを薬種といいました。

道修町が薬の町として発展を遂げたのは、徳川吉宗の治世。徳川吉宗が、道修町の薬種問屋に特権を与えて、道修町の薬種問屋は全国に薬種を売りさばけるようになります。

現在の道修町には製薬会社等が軒を連ねるなか、有名製薬会社が建築した資料館も目白押し。道修町ミュージアムストリートとも呼ばれています。主な資料館や展示はこちら。

・くすりの道修町資料館
・杏雨書屋
・大日本住友製薬史料展示スペース
・田辺三菱製薬史料館
・塩野義製薬本社展示コーナー

約300メートルの間にさまざまな資料館や展示があり、知的好奇心が刺激されそうですね。
薬種問屋の大店として知られる小西家の邸宅は、国の重要文化財。明治期に3年をかけて建築された邸宅は、凛とした美しいたたずまいを見せてくれます。


大阪の難読地名、中級編はいくつ読めましたか? 大阪になじみのない人は読めない地名ばかりだったかもしれません。ちなみに、筆者はひとつも読めませんでした。次回の上級編もお楽しみに!

※本記事の掲載内容は執筆時点の情報に基づき作成されています。公開後に制度・内容が変更される場合がありますので、それぞれのホームページなどで最新情報の確認をお願いします。
~こんな記事も読まれています~

この記事が気に入ったらシェア

おすすめ記事