【いくつ読める?】新開、神米金、水判土…埼玉県の難読地名〜中級編〜

東京への通勤者が多く住む埼玉県。都内に通勤する人たちが多く住む街というイメージを持たれがちですが、内閣府が2019年に発表した2016年度の県内総生産は東京、愛知、大阪、神奈川に次ぐ全国5位。日本有数の産業都市でもあります。

さて、そんな埼玉県には、簡単には読めない難読地名が多数存在。今回は、埼玉の難読地名中級編を5つピックアップしました。ぜひ挑戦してくださいね。

安行(川口市)

安行は川口東インターにほど近い川口市北東部の街。東京外環自動車道が通っており、フェンス越しに緑豊かな様子を見たことがある人も多いのではないでしょうか。

木の産地として知られる安行。安行にある「川口緑化センター 樹里安」は、川口の緑化産業の拠点施設。植木・鉢物などの展示・販売を行うほか、道の駅も併設されています


↓その答えは?

読み「あんぎょう」

安行の地名の由来は、室町時代中期にこの地の名主であった中田安斎入道安行(やすゆき)にあると伝わります。中田安斎入道安行は、1496年に「金剛寺」を開創。現在、金剛寺はお灸のお寺として知られています。

金剛寺には、江戸時代に安行での植木・苗木開発業を興したといわれている吉田権之丞の墓石も現存。明暦3年(1657年)、江戸の大火ののちに、吉田氏が安行から植木や苗木を江戸に送り、江戸の復興に尽力しました。その後も、苗木や草花の栽培を主な産業として振興し、安行の植木は「川口の二大産業」とまで言われるようになったのです。

戦前までは、日本最大の植木の産地であり、今なおその技術と歴史は受け継がれています。今は昔ほどの勢いはないものの、研修施設や情報交換施設など、植木の里としての役割は果たし続けています。現在でも安行の若い職人たちの間で、安行の地で培われた技術が重宝されているそうです。

小手指(所沢市)

小手指は西武池袋線の小手指駅を中心に栄えている所沢市の街です。小手指駅前にはスーパーや飲食店など、生活に密着したお店が建ち並び、住みやすさはばっちり。

小手指公園にはD51が展示されています


↓その答えは?

読み「こてさし」

この地が小手指と呼ばれるようになった由来は、諸説あり定かではありません。「合戦の舞台になったことから、「籠手(こて)」にちなんでいる」という説や、「日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で籠手をかざして前方を見た」という説、「原野に生えていた茨の名前」とする説などが由来とされています。いずれにしても古くから小手指と呼ばれていたことは間違いないようです。

小手指には、「小手指ヶ原」と呼ばれる、合戦が繰り広げられた地区があります。小手指は『太平記』にも登場しており、非常に古い地名です。1333年、鎌倉幕府を倒すため、兵を挙げた新田義貞と幕府軍の戦いの火蓋が切られた土地としても知られています。また、小手指は、1335年の中先代の乱や1352年の武蔵野合戦の舞台ともなっており、北野2丁目には「小手指ヶ原古戦場跡の碑」が残されています。

現在の小手指は、都心から40分の立地であることから、ベッドタウンとして人気。小手指が、現在のように栄えたのは、1970年の小手指駅の開設以降と、街としての歴史は古くありません。駅前には小手指タワーズというタワーマンションもあります。また、1977年に開園した小手指公園には、蒸気機関車D51が展示されています。こちらは1930年代に製造され、北海道を走っていた蒸気機関車なのだとか。子どもも大人も興味深く楽しめる公園ですね。

新開(さいたま市桜区)

新開は、浦和ゴルフ倶楽部のある緑豊かな地域。企業の工場が点在するエリアです。鴨川の堤沿い約2キロメートルの桜並木やさいたま市桜環境センター内の大浴場を目当てに新開を訪れたことがある人もいるかもしれませんね。

↓その答えは?

読み「しびらき」

新開の由来は安土桃山時代、1590年まで遡ります。豊臣秀吉の小田原攻めの際に岩槻城が落城し、岩槻城の家臣は各地に離散。そのうちの数名が、この土地に村を作ったとのこと。これにちなんで、村名を「新開(しびらき)」にしたと伝わります。

現在の新開には、包装加工やポップコーンの製造を行っている「株式会社オリエント」やドラム缶のリユースを行っている「朝日容器工業」が製造拠点を構えています。また、「さいたま市桜環境センター」という、ゴミ処理施設とその余熱を利用した体験施設が人気。マッサージコーナーもある大浴場や、ジムにスタジオ、レストランなどリラックスできる設備が整っています。さいたま市内在住の人は730円で温泉を利用できるほか、プラス300円で岩盤浴も体験可能です。リーズナブルにレジャーを楽しみたい人にはぴったりですね。

さらに、同センターでは、さいたま市民が提供した不要家具を販売するリサイクル家具展示販売会も開催。さいたま市に住んでいる人、勤務している人、通学している人なら誰でも購入できますので、格安で家具を手に入れたい人は、ホームページや市報で告知されるリサイクル家具展示販売会のお知らせを要チェックです。

神米金(所沢市)

神米金は所沢市北部に位置する緑豊かな地域。周辺には各種教育機関も多い文教地区でもあります。

↓その答えは?

読み「かめがね」

「神のお米と金」と書く神米金にはどんな由来があるのかと胸が躍りますが、実はこの地名は明治7年の合併時に「神谷新田」、「久米新田」、「堀兼(堀金)新田」という地名の1文字ずつを組み合わせてつけられた名前。神谷の、「か」、久米の「め」、堀兼の「がね」を組み合わせただけというシンプルな由来です。

神谷新田や久米新田、堀兼新田は、1716年に8代将軍に就任した徳川吉宗の享保の改革の事業として開発された田んぼです。それまでは、採草地として用いられている土地でした。

現在の神米金も、当時開かれた新田の影響を色濃く残した田園地帯となっていて、吉宗時代の名残が感じられます。何も知らなければ通り過ぎてしまいそうな田園地帯ですが、徳川吉宗時代に開墾されたものだと知ると、興味深くドライブやサイクリングを楽しめるのではないでしょうか。

水判土(さいたま市西区)

水判土は、さいたま市西区の住宅地。「慈眼寺」という広大な境内を持つお寺の所在地でもあります。

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読み「みずはた」

水判土は、水波田と表記されることもあります。現在も水判土地域にある慈眼寺には、「水波田観音」と呼ばれる観音様も。

水判土の由来は定かではありませんが、田んぼを意味する水畑からきたともいわれています。水判土は、鴨川のそばに位置する農耕地帯で、荘園時代から水判土荘として栄えていたといわれています。

水判土にある天台宗の寺院・慈眼寺は、826年に開山され現代まで脈々とその歴史をつないでいます。慈眼寺は戦国時代には、城郭としての役割を果たし、太田氏の庇護を受けていましたが、焼き討ちにより消失。1671年に再建されました。

埼玉県は、「住む街」としてのイメージが強いですが、実は長い歴史の中でターニングポイントとなる出来事が起きた土地でもあります。今回ピックアップした地名にも歴史の香りが色濃く残っていましたね。難読地名には、意外な由来が隠されていて、それを探りながら街を歩くのもまた一興。知られざる歴史をひも解くため埼玉の地を訪れると、興味深い1日を過ごせそうです。

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