【ARUHIアワード12月期優秀作品】『金魚を放す』金井博文

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 きのう四十になった。四十歳。
 もう一度今までの長さの時間を過ごすと八十だ。当たり前だろと思われるかもしれないが、八十年という時間感覚がおぼろげながら見渡せるのが四十歳という年齢が持つ破壊力の高さ。
 そして生きてきた時間と残された時間の真ん中辺りに立って見渡せる景色のあまりにも寂寞とした眺めに歯を磨きながらえずきながら膝から崩れ落ちそうになった。
 なんとなく消えてしまいたくなるけど死ぬほどの積極性があるわけもなく。蒸発するように自分を消せればどれほど楽かとじっと考えながら金ちゃんに餌をやる。
 金ちゃんとは去年千夏と行った夏祭りの金魚すくいでとってきた金魚の名前だ。
 ずいぶんと大きくなった金ちゃんだが、いまだに水槽の大きさとのバランスがとれていない。  
 千夏がすくい、持って帰ってきた時金魚は二匹いた。とりあえず一晩マグカップに入れ、次の日近くのホームセンターに千夏と一緒に水槽を買いに行った。毎年祭りのたび増やしていこうという千夏の提案で買った水槽は電子レンジほどの大きさがあった。家にかえって金魚を水槽に入れると金魚は底の隅でじっとしたままで、その光景がなにか滑稽で千夏と長い間笑いあっていた。
 夏祭りからひと月経った頃、千夏は突然別れを切り出してきた。私に反論の余地は無かった。それは千夏のお腹の中に赤ちゃんができていて、なおかつ私と千夏の間にセックスはもう随分と無かったからだ。
 千夏と別れた次の日の朝、金魚が一匹無機質に浮いていた。浮いた金魚はふやけたちりめんじゃこの様で、少しの腐敗臭だけが生き物としての存在感を主張していた。
 残されたもう一匹の金魚はなにくわぬ顔をしたまま餌を食べ続けていた。同じ水槽にいた仲間が死んでいるって言うのに、その金魚はがむしゃらに餌を食べ続けている。
 私にはそれがうらやましかった。環境の変化に揺さぶられることなく、淡々と生き続けるそいつに尊敬の念さえ抱いた。それ以来私の中で一匹残された金魚は心強い相棒となった。相棒には名前が必要だからその時残された方の金魚に金ちゃんと名付けた。名前なんて安易な方がいい。
「金ちゃん、四十になったよ」
 餌をやりながら金ちゃんに喋りかける。
 金ちゃんは大きすぎる水槽の中でいつものように餌を食べていた。いつものように・・とは思っていた。しかしその時猛烈な罪悪感が湧いてきた。
 こんな水槽の中に金ちゃんを閉じ込めていていいのだろうか。金ちゃんにとっては大きすぎる世界、水槽だけど。仲間もいないただ大きなだけの世界なんて金ちゃんにとっては地獄に過ぎないんじゃないのだろうか。四十を迎えた心境の変化か、昨日風の噂で千夏の近況を聞いたからだろうか。
 私は金ちゃんを愛していた。けれど愛することと所有することはイコールではないし金ちゃんは必ず私よりも先に死ぬ。その時自分の中に現れる喪失感も怖かった。時間が、環境が私の大事なモノを突然取り上げるのは耐え難い恐怖だった。
「金ちゃんを放そう」
私は突如決意した。
 とりあえずきのう買ったカップ麺を入れたコンビニ袋があったのでその袋で水ごと金ちゃんをすくった。
 金ちゃんはあらがう事もなく一緒に入った餌を黙々と吸い込みながらコンビニ袋に入ってきた。
 その瞬間ドアのチャイムが鳴った。無視しておこうかと思ったが、何度もしつこく鳴
るので観念して扉を開けるとそこには見知らぬ女性と小さな女の子が立っていた。
「隣の川村です」女は笑顔も出さずに言う。
 長い間空き家だった隣に先週ぐらい引っ越しやさんが出入りしていたのを思い出した。
 日曜日を待って挨拶に来たんだろうぐらいに考えたが、予想の斜め上からの言葉をその女は言う。

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