【ARUHIアワード12月期優秀作品】『交差する記憶』間詰ちひろ

 望美の声は、だんだんと小さくなっていった。親に反対されただけで諦めるなんて、結局は考えが甘いし、覚悟も何もないんだなと恥ずかしい気持ちがこみ上げてきた。大学院を出たその先は考えているのか? 研究者なんて、ほんの一握りの人間しかなれないんだぞと、両親に問い詰められた時に反論すらできず黙って俯いていた自分を思い出すだけで、鼻の奥がツンと痛くなった。
 松野は「そうねえ」とたっぷりと息を含んだ様子で吐き出したのち、「おばあさんの思い出話も、いいかしら?」と望美の顔を覗き込むように話しかけた。望美は頷くと、松野は「もう、五十年以上昔の話だから、今とはずいぶん時代も違っているけど」と話し出した。

 松野輝子には、十歳年上の健一という兄がいた。健一は物静かで、いつも本を読んでいた。輝子は健一のことが大好きで、いつだって健一の後ろをくっついていた。健一も幼い輝子を邪魔者扱いすることなく、輝子を可愛がり一緒に遊んでくれていた。
 健一にはある夢があった。それは、医師になりたいというものだった。健一と輝子の間にはもう二人兄弟がいたのだけれど、二人とも生まれて間もない頃にばたばたと亡くなってしまった。幼い弟達の死を目の当たりにしたことは健一が医師を目指した大きな理由になったことは、確かだろう。お正月くらいしか顔を合わせない叔父が内科のお医者様だったことも健一の背中を押したのかもしれない。
 ただ、松野家は小さな商売をしていた。その当時、家業は長男が継ぐものだと当時は誰もが考えていたし、輝子の、そして健一の父である秀夫も当然そう考えていた。
「医者になろうという心構えは立派だ。お前の覚悟も認める。ただ、諸手を挙げて賛成できるものでもない」
 秀夫と健一の話し合いを、輝子は何度も柱の陰からのぞいていた。普段は物静かな健一が秀夫に向かって訥々と訴える姿は、幼い輝子の胸にも迫るものがあった。何度か話し合いの場が持たれたのち、秀夫は健一にひとつの条件を出した。
「試験を受けるのは認めてやろう。だが、何があっても一度限り。その一度で結果が出せなければ、大学進学は諦めて、家業を手伝いなさい」健一はその条件を飲むよりなかった。もっとも健一の成績は学年で一番だったし、教師からも健一の進学を喜ぶ声が上がったほどだった。健一は目指す道に進んでいくに違いない。誰もがそう考えていた。

「……でもね。人生は、思い通りにいかないことばっかりなのよね」
 輝子はうつむいて、静かに目を閉じた。話を聞いていた望美は、この先に何があったのか想像したくなかった。

 試験前日の夜、輝子は意識を失うほどの高熱に浮かされていた。季節柄、流感いわゆるインフルエンザであろうことは予想された。病院に連れて行かねばならないけれど、こんな時に限って一家の長である秀夫は留守をしていた。商売上懇意にしている大店で不幸があり、弔問へ伺っている最中だった。ひどく狼狽している母を落ち着かせ、長男の健一が輝子を病院へと連れて行かねばならなかった。救急外来へ輝子を連れて行った健一は、輝子の意識が落ち着くまでの一昼夜、離れず側に付き添ってくれた。それは、健一自身の夢を諦めることになるにも関わらず。
 輝子の容体が落ち着いたのは、健一の大学試験日の翌々日だった。輝子自身、この数日のことは全く覚えていなかった。ただ、健一が輝子の名前を呼び続け、大丈夫だよとか頑張れと励ましてくれている夢を見ている、と思っていた。しかし、それは輝子の夢ではなく、現実のことで、健一は輝子のそばに付きっ切りになって様子を見てくれていたに過ぎなかった。

「私のせいで、兄は自分の夢を諦めたんだって、退院してから知ってね……。どうすればいいか分からなかった」輝子は少し自重気味に、ふふっと望美に笑いかけた。

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