【ARUHIアワード12月期優秀作品】『交差する記憶』間詰ちひろ

「売り手市場だ、なんて新聞では見るけどね。本当にやりたい仕事に就くのは、いつの時代だって難しいことだから。マイペースでやるしかないよね。」と優しい声で言ったのち、小さく微笑んでくれた。老婆の微笑みと、励ましてくれた言葉に対して、望美はとても救われたような気になった。同じマンションに住む、時折すれ違うだけで、事情も何も知らない人なのに。それでも、老婆が言ってくれた言葉は、望美の心にじんわりと染みわたり、ほんの少し涙ぐんでしまった。しかし、老婆は、望美が涙ぐんだことに気がついたようだ。
「あらいやだ、ごめんなさいね。気の利かないこと言って、傷つけちゃった?」ほんの少し慌てながら、持っていた小さなカバンの中から柔らかいハンドタオルを望美に差し出してくれた。望美はありがとうございますと、小さく頭を下げて、差し出してくれたハンドタオルを受け取った。メイクが落ちないようにそっと、目尻を抑えた。ハンドタオルはお香のような、どこか落ち着く香りを纏っていた。
「……いえ、こちらこそすみません。かけてくださった言葉が、なんだか感極まってしまって。泣くようなことじゃないのに、恥ずかしいです」
「恥ずかしがるようなことなんて、何にもないわよ。涙が出るなんて、よっぽどのことだし」落ち着いた様子で、老婆は話してくれた。「まあ、エレベーターが動き出すまでの間、少しお話ししましょうか。袖振り合うも多生の縁といいますから」老婆が優しく笑いかけてくれたので、望美も「はい」と小さく笑顔を作ってうなずいた。
 松野輝子と名乗った老婆は、望美の話を静かに聞いてくれた。望美が勉強中の環境生物学について、もっと学んでみたいと考えるようになったのは、三年生の終わりごろだった。それまでは、真面目に大学に通ってはいるものの、大学院に進学したいとは思っても見なかった。どこかに就職できればいいかとぼんやりとした進路を描いていただけだった。しかし、三年生の終わりごろから、それぞれ教授が担当する研究室に所属する。そこで、卒業に向けた研究テーマを選び、課題を進めていくことになるのだ。
「研究室に入ると、それぞれの研究課題に向けて、自分で計画して色々動いたり、調べていかなくちゃいけないんです。すごく大変なんですけど、でも調べることって楽しいなって思ったんです」望美はとつとつと、話を続けた。
「それまでは、どちらかと言うと、勉強は楽しくなかったの?」松野は望美に向かって質問した。問い詰めるような口調ではなく、とても優しく。
「えっと、そうですね……。楽しいと言うよりは、言われたことだけやってた感じかな? それだけでも評価されてたから。自分で何かを考えて動いて、っていうのはあんまりなかった……です」
「まあ、そういうものよね」松野は頷きながら納得した様子で、望美に話を続けるように促した。
「でも、私が調べることになった研究は、すぐには結果が出ないんです。生態系に関する研究で、一年や二年でわかるような研究じゃなくて。私が卒業しても、継続して研究は続きます。その研究に関わっていきたいって、ようやく気づいたんですけど……」望美はそこまで言うと、深いため息をついた。松野は小さく頷いて「でも、就職しなくちゃいけないから、ってことね」と望美の気持ちを汲み取って、続けてくれた。
「ご両親に、その話はしたの? 就職じゃなくて、大学院に進学したいってこと」
「はい。でも、これまでに一言も大学院に進みたいなんて言ってなかったし、就職が嫌だから逃げているだけだと言われてしまって。お金も出さないって反対されました。結局試験の出願時期が過ぎてしまって……」
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