【ARUHIアワード11月期優秀作品】『桜の家』ウダ・タマキ

 窓の外には桜紅葉が広がる。
 私達は食堂のテーブルに座り、コーヒーを飲みながら他愛もない話に花を咲かせていた。私が始めた懐かしい歌の話を皮切りに、みんなが歌にまつわる思い出話に目を輝かせている。
 私は川上さんに目をやった。彼女もまた、みんなと同じように満面の笑みを浮かべていた。

 息子さん宅から戻って来た日、川上さんは息子さんに連れられて私とサヨちゃんの所へやって来た。
 まず、彼女は小さく頭を下げた。その顔は反省しているより、むしろ憔悴しているようだった。
「吉岡さん、この度は、すみませんでした……何て謝ればいいのか……」
 漸く絞り出された掠れた声。川上さんは深々と頭を下げた。

 張り詰めた空気の中で沈黙が続いた。

 私が声を発しようとするより僅かに早く、サヨちゃんが切り出した。
「何をそんなに謝ってるの。頭上げなさいよ、かっこ悪いよ」
 サヨちゃんは笑みを浮かべて川上さんの頭をそっと撫でた。
 その瞬間、張り詰めた空気が一瞬にして解れた。
 ゆっくりと顔を上げた川上さんは恥ずかしそうな表情を浮かべ、息子さんはキョトンとした顔をして、私はというと……堪えていた笑いが我慢できず思わず吹き出した。
 そして、それをきっかけにみんなが笑った。

「楽しそうですね」
 私達の賑やかな声を聞きつけた峰岸さんがやって来た。
「今度、カラオケ大会やりましょうよ」という川上さんの提案に「良いですね、ぜひ」と峰岸さんは快諾してくれた。

 どんよりとした黒く厚い雲に覆われた十二月、ホームでは忘年会と称したカラオケ大会が催された。
 はじめのうちは「私はいいよ!」などと恥ずかしがって遠慮していた人が、マイクを握ると大きな声を出して歌う姿が愉快だった。
「私、次はこれを歌う」
 サヨちゃんはカラオケが大好きで、次々と懐かしい歌を披露した。
「サヨちゃん、上手ねー」と川上さんが感嘆の声をあげた次の瞬間、「あっ!」とサヨちゃんの声が食堂中に響き渡り、みんながサヨちゃんの指差す方に視線を向けた。
 窓の外には、この地域では珍しい雪が舞っていた。
「次は雪の歌にしようかしら!」
 サヨちゃんの声にみんなが笑った。
 元気な人、車いすに座る人、認知症の人もみんなが同じようにそのひと時を楽しんだ。

 寒さの厳しかった冬は、初春の三月を迎えようとしても寒さが続いた。
 川上さんは数日前から風邪をこじらせて寝込んでしまった。このまま熱が下がらなければ入院が必要になると医師に言われた川上さんだったが「入院なんかしない」と強く拒んだ。
 しかし、熱が出始めてから五日目となっても川上さんの高熱は続く。肺炎が疑われるため、さすがに入院をする運びとなった。
 それでも、川上さんは相変わらず「全然大丈夫! 入院しない!」とスタッフの手を払いのけたが、このまま放っておくことはできず医師の指示により救急搬送の要請をすることとなった。
 川上さんは半ば強引にストレッチャーへ乗り移らされても搬送を拒み続けた。
 私はストレッチャーの横を歩きながら川上さんに付き添ったが、彼女の視界には私の姿など入っている様子はなく、ただ苦痛に顔を歪めながら「行かない、降ろして」と繰り返した。
 私達がロビーまで辿り着いた頃、ちょうどサヨちゃんが帰って来た。その騒々しい様子に何かを察したのか、サヨちゃんは川上さんの顔をゆっくりと覗きこむ。
「おねえちゃん、顔色悪いね。病院行ってらっしゃいね。私、ユキちゃんとお見舞いに行くわね」
 それは心に直接届くような、優しさに包まれた一言だった。そして、サヨちゃんが川上さんの目を見つめて手を握ると、さっきまでの様子とは打って変わり穏やかに頷いた。
 そこには、とても優しい空気が流れていた。

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