アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた11月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

鏡の前に立つ-

湾曲した背、黒と白が入り混じった頭髪、顔や手に深く刻まれた皺。
鏡を見るのは嫌い。現実を突きつけられる。
一つ大きく吐いたため息。僅かに残っていた希望が全て漏れ出した。

遠き夏の日、年をとれば見た目など気にならないと、ほっかむりの下から真っ黒に日焼けした顔をした祖母が言った。
今となって分かる。それは晩年の侘しさを僅かでも掻き消そうとする彼女の強がりに違いないと。今の私には、まだそんな強がりを口にできる強さは備わっていない。老いてゆく自分の姿と心は大きく乖離する。

 食堂に居る数人の男女。
 椅子に腰掛ける者、車いすに座る者。皆一様に所在無く俯いている。
 壁一面に大きくとられた窓の向こう、澄み切った青空、そして満開の桜との対比が私の目に悲しく映った。

 私がここにやって来たのは三ヶ月前。肺癌を患っていた夫に先立たれたことがきっかけだった。
「母さん、この先一人暮らしは心配だから、夜でも誰かがいる所に引っ越そ、お願い」
 葬儀を終えたばかりで思考回路が円滑に働かない私は、半ば無意識に頷いた。
 思えば私の人生における喜びや悲しみは、全てが夫を起点としていた。夫を失った今、私には何も残されていない。
 私は娘が探した『有料老人ホーム 桜の家』に移った。八十歳を目の前にして私の生活は一変した。
 幸いなことに軽い腰痛がある程度で健康状態は良い。自由に外出はできるのだが毎日出掛けるほどの用事は無い。それでも散歩と称して外に出るようにしているが、せいぜい小一時間の散歩は、ただ時間と体力を消費するための作業に過ぎないのだ。
 私が暮らす二階の角部屋は南西方向それぞれに窓があるのでとても明るい。目に入る景色は山の緑くらいだが、鳥のさえずりが耳に届き、爽やかな風を感じることができる。ここへ来て唯一気に入っているのはそれくらい。

 隣の空き部屋に新しい入居者がやって来ることは介護スタッフの小森さんから聞いた。彼女はとにかくよく喋る。他のスタッフのことだけではなく、入居者のことさえも筒抜けだ。
「北本さんの隣のお部屋、新しい人が入るみたいよ、来週だって」
「あら、男性、女性どちらかしら」
「女性よ、七十八歳の方」
「私と同じね」
「でもね、認知症があるみたいよ」と小森さんは今更ながら周囲を気にするように声のトーンを落とす。
「あら、そうなのね」
 私の気の無い返事は、恐らく彼女にとっては物足りないものだっただろう。しかし、私にはどんな人がやって来ようと関係の無いことだった。誰が来ようと私の生活に変化は無いのだから。

 その日、昼食を終え部屋へ戻ろうとすると、隣の部屋に男女三人の姿があった。
 私は大きく開かれた戸から中の様子を覗き込み遠慮気味に「こんにちは」と声をかけた。
「こんにちは」と慌てて中年の男女が振り返る。
「隣の北本です。よろしくお願いします」
 お辞儀をした私の姿に「お袋、お隣さんだって。挨拶して、ほら」と男性が急かす。どうやら息子夫婦のようだ。
 女性は「お隣さんて何よ」と息子に背中に手を添えられて面倒くさそうに立ち上がった。
 すると、嫁が私にそっと近付き、耳元で囁いた。言い辛そうに「すみません、認知症なんです」と。つい「存じております」と発しそうになったが、慌てて「そうですか」と返した。しかし、認知症だからといって謝罪される覚えはない。
「私はサヨ子です。サヨちゃんて呼んでね。あなたは?」
「え、あ、私は北本です。北本ユキです」
「そう、じゃあユキちゃんね、よろしく」
「よ、よろしく」
 ユキちゃんなどと呼ばれて妙にこそばゆい。ニコリと微笑む女性とは対照的に、息子夫婦は申し訳なさそうに揃って小さく頭を下げた。
 今度は息子が私の耳元で囁く。
「すみません、小学生の子どもなんです、母の中では。今後、失礼なことがあるかもしれませんが……」
 なるほど、そうゆうことかと理解すると同時に-

 面白そうじゃないか!

 刺激の無い生活に一筋の光が射し込んだ気がした。

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