【ARUHIアワード11月期優秀作品】『今日、家の前で猫と会った』白尾ケン

 大学生活に対して漠然と憧れを持っていた自分を懐かしく思えるようになるのに、そう時間はかからなかった。当たり前ではあるが、人間はそう簡単には変わらない。多少おしゃれをしたところで、大学でできる友人は、高校の時につるんでいたのとそう変わらないし、彼女だって、大学に入れば誰でもできるわけでもない。同じ軽音サークルの女の子から未だに君づけだし、僕も向こうをさんづけで呼んでいる。
 サークルの同期はもうすでに彼女ができたらしく、僕はそれに嫉妬はしなかったが、彼の行動力が羨ましいと思った。
 部屋の髪染め剤は、未だに手付かずのままだ。髪を染めたがっていた友人が居たことを思い出し、どうせ使わないからあげようかと思った。多分、僕より彼の方が茶髪が似合う気がする。
 ただ、ひとつだけ大学に入って変わったものがあった。猫の友達ができたのだ。どうやらこの地域は野良猫が多いらしく、歩いているといたる所で見かける。玄関を開けると家の前に居ることもしばしばあって、最初は警戒されて距離を取られていたが、たまにかつお節やら、余ったパンを与えてるうちに、懐くとまではいかなくても、警戒はされなくなった。あまりあげすぎても良くないと思い、気が向いたらあげる、程度に済ませていた。向こうもそれは承知しているらしく、毎日餌を貰いにくるわけではなかった。僕はその猫のことを、ねこ助と呼んでいた。三毛猫で、オスかメスかは分からなかったが、なんとなくオスな気がしたので、ねこ助だ。よく玄関の前で日向ぼっこをしていた。僕は彼と一緒に、ぼーっとすることが好きだった。
「ねこ助、気持ちいい?」
 返事は当然ない。ぴくりと耳を動かして、またぼーっとするだけだ。それがたまらなく心地よかった。


 大学生活にも慣れてきたころ、僕はアルバイトを始めた。最寄り駅の近くにあるデパートの地下で、僕は週に3回ほど、八割そばを茹でている。
 そこで僕は仕事を覚え始めたが、何より知ることができたのは、バイトは辛いものだ、ということだった。面接の時は優しかった店長も、働き始めてある程度は仕事を覚えはじめるころになると、僕を叱ることが増えていった。あまりバイトに時間を割くことができないのもあり、数日経つと忘れてしまったり、凡ミスをすることが多々あった。
「何度言えば分かるんだよ」
 これが店長の口癖だった。辛かったのは、怒られること自体というよりも、その時に僕に向けられる店長の目だった。薄く細められ、まるで人間じゃないものを見るかのように、僕を一瞥する。似たようなミスを同僚がしても、店長はあの目を、僕以外に見せることはない。僕にだけ向けられる眼差しが、こんなにも冷たくて辛いものだとは知らなかった。
「あの人は、怒る人を選んでるから」
 バイト中、先輩が食器を洗いながら言った。忙しい時でもイライラすることなく、熊のようにいつものんびりしてる男の先輩だ。体格も熊みたいで、なんとなく安心感のある人だった。違う大学の4年生で、最近は就職活動に忙しいようだ。
「ほら、水上くんさ、優しいじゃん? そういう人にしか強く当たれないんだよ」
「そうなんですか」
「俺なんか一回あの人とバトっちゃって、それ以来うるさく言ってこないんだよね。だから水上くんもさ、一回怒ったらいいんじゃない」
 今まであまり人に怒ったことがない自分が、店長に怒れるだろうか。そんなことを思っていると、先輩はまた無言で食器を洗いはじめた。

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