アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた11月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

「はじめまして。隣に引っ越してきた水上と申します」
 僕は、冷蔵庫の上に置かれた小さな鏡に向かって、何度も挨拶の練習をしていた。元来コミュニケーション、特に初対面と人が苦手な僕は、他愛のない会話をすることも練習を要する。続く会話によっていくつかのパターンを練習して覚えようとしたが、パターンGを超えたあたりで、覚えるのを諦めてしまった。
 服装は悪くない。赤チェックのシャツにジーンズ。特段センスがあるわけではないが、初対面の人に良い印象を与えるには十分だろう。大学に入る前に、少しばかりファッション雑誌というものを読んで勉強したから、及第点であるはずだ。
「よし」
 僕は意を決して、上京の際に北海道から持参した六花亭のお菓子を持ち、玄関を出て隣人さんの部屋のインターホンを押した。大家さんから聞いた話だと、隣人さんは同じ大学でふたつ上の学年の女性らしい。アパートなら女性はだいたい二階より上に住むものだ、というイメージがあったから、その話を聞いた時は意外に思った。
「……はい」隣人さんの声だ。
「はじ、はじめまして、あの、隣に引っ越してきた、水上といいまして」
「はい」
「その、あ、挨拶しに」
「あ、分かりました、ちょっと待ってください」
 盛大に噛んでしまった。恥ずかしさで心臓が締め付けられるような気がする。鼓動が早くなり、顔が赤くなるのが分かる。落ち着け自分、と言い聞かせて、六花亭のお菓子を自分の胸に押し当てた。あまり強く握ると、包装紙にシワができてしまうことに気づき、僕は手の力をすっと緩めた。
 隣人さんが出てきたのは、それから1分ほど後のことだった。眠たそう顔で、少し茶がかった色をした髪はまとまりがない。服装も上下グレーのスウェットで、どうやら寝起きのようだ。
「はじめまして、隣に引っ越してきた水上と申します」
 何度となく練習したフレーズは、淀みなく言うことができた。ただ、鏡の前ではできた、柔和な笑みはできていなかったように思える。笑顔は昔から苦手だった。集合写真でどう笑ったらいいか分からず、必ず面白い顔になってしまう。一度友人に笑われてから、さらにどういう顔をしていいか分からなくなってしまった。次第に僕は写真で笑わないようになり、そもそも写真を撮られること自体を嫌がるようになった。
「あ、鈴木です」
「あの、この春から隣に引っ越してきまして、これご挨拶に、と思いまして」
「え、いいんですか。ありがとうございます」
「はい」
 僕が差し出したお菓子の包みを、鈴木さんは片手で受け取り、ぺこりと頭を下げた。なんとなく、猫みたいな雰囲気のある女性だった。
「えっと、よろしくお願いします」また、ぺこりと彼女は頭を下げた。
「はい」
「……」
 あれ、話が続かない。そうだ、大学の話をして。
「それじゃあ、ありがとうございます」
 バタン、とドアが閉まり、彼女は部屋に戻ってしまった。
 結局、いくつか考えた会話のパターンも、全て無意味に終わってしまった。鈴木さんは、一度も笑顔を見せることなく、無愛想な返事をするだけだった。初対面なのに、もう少し普通は会話するものじゃないだろうか。いや、僕が緊張してたから、向こうも居心地が悪かったのかな。そんなことを考えていた。玄関の前で立ち尽くす赤チェックは、側から見たら惨めなものだっただろう。隣人さんとの会話すらままならない。遠くで、小さな女の子の声が聞こえた。その声が、なんとなく僕を笑ってるような気がして、僕は逃げるように自分の部屋に戻った。あと数日もしたら、大学生活が始まる。
 部屋に戻ると、テーブルに置かれた髪染めの箱が目に入った。昨日、ドラッグストアで買ったものだった。僕はそれを、本棚にある隙間に理由もなく突っ込んだ。

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