【ARUHIアワード10月期優秀作品】『介護ヘルパー鞠子の苦悩と幸せ』長井景維子

10時のお茶の時間になった。ホールにいるお年寄りにお茶を飲んでもらう。火傷をしないように適温に冷まして、割れて怪我をしないようにプラスチックの湯呑みに八分目に注ぐ。水分補給のために、このお茶は大切だ。ベッドに寝たきりのお年寄りのために、吸い口を用意して冷めたお茶を飲んでもらう。各部屋を名前を書いた吸い口をもって廻り、全員がお茶を飲んだら、今度は洗い物をする。お茶を飲んでしばらくすると、またトイレブームが来る。オムツを替えることもやってみる。
おばあさんだけでなく、おじいさんのオムツも替えた。鞠子はここでプロ根性が鍛えられると思い、精一杯頑張った。中には気難しいお年寄りがいる。わざとお茶をこぼしたり、口に入れてもらったものをぺっと吐き出したり、「こんなものが食えるか!」とお盆をひっくり返してめちゃくちゃにして床まで汚す人もいる。自分の体が自由に動かない、片麻痺のお年寄りなどは、ストレスが溜まって、時に意地悪をする人もいた。でも、その気持ちをできるだけ理解しようと努めて、黙って汚れものを片付けて、代わりに食べるものを用意して、お腹が空いた頃におやつのように食べてもらったりして気を使った。

どんなに意地悪をされたり、オムツの取り換えで参っても、穏やかな寝顔を見ると、なんだかホッとした。こんな安らかに眠ってる。あの意地悪なおばあさんも、気難しいおじいさんも、みんな眠ってしまえば、大人しい。その安らかな寝顔を見ながら、よーし、また頑張ろうと思うこともあった。

3時のおやつになると、パックに入った牛乳とポテトチップスを配った。骨粗鬆症の予防にカルシウム補給をするため、3時には必ず牛乳パックが出る。牛乳を飲めないお年寄りもいる。そういう人にはヨーグルトを代わりに渡す。お腹がゆるくなるので、大抵みんな下痢をする。オムツ替えは憂鬱なものになった。

そして、四時半に夕飯の時間になり、早番だった鞠子の勤務が終わる。遅番の人たちがやってきた。申し送りを十分間でして、それで今日の勤務が終わった。
「どう?疲れたでしょう。明日はゆっくり休んで、明後日また早番お願いね。」
介護福祉士の主任に言われて、鞠子は、
「はい。少し疲れました。明後日またよろしくお願いします。」
「明後日はお風呂の日だから、よろしくお願いしますね。」
「はい。」

更衣室で私服に着替えて、汚れた制服をクリーニングするカゴに入れる。バッグを持って、タイムカードを押し、小走りにスーパーに向かった。うちのおじいちゃんは、なんて立派なんだろう。特養にいる同じ年頃のおじいさんたちはもうみんな要介護で、何も自分では出来なくなっている。お義父さんにはいつまでも元気でいて欲しいな。今日はおじいちゃんの好きな秋刀魚でも焼いてあげよう。きのこの炊き込みご飯の材料と、秋刀魚を四尾、大根を一本買い、スーパーを後にした。

帰ってキッチンで早速夕飯を作り始めた。こめを研いで炊き込みご飯を仕掛けて、大根おろしをたっぷりとおろす。ホウレンソウの胡麻和えを作る。秋刀魚は包丁の背で撫でて鱗を取り、水で洗って塩を振り、グリルで焼く準備をした。

そこへ電話が鳴った。「はい、小宮山です。」
「あ、鞠子さんか。わしだ。なんかフラフラしてろれつが回らない。」
「え?お義父さん、大丈夫?今どこ?」
「将棋クラブ。公会堂だ。」
「今すぐ救急車呼びます。公会堂の涼しいところで待っててください。私も今から行くから。」

鞠子は車の鍵を掴むと、玄関から飛び出した。車に乗ると、携帯で救急車を公会堂に呼び、車をスタートさせて、自分も公会堂に向かった。一刻を争うことは、予備知識として知っていた。

救急車はすぐにやって来た。鞠子は救急車と同時に公会堂に着くと、義父を探した。義父は意識はしっかりしているが、ぐったりとしている。すぐに救急隊員に付き添われて救急車に乗った。鞠子も同乗した。
「一番近い救急病院へお願いします。」

体で麻痺しているところがないか、救急隊員が聞くが、麻痺は幸い無かった。ただ、言葉を話そうとすると、モゴモゴと口ごもってしまう。

脳神経外科の医師のいる救急病院へ到着して、すぐに検査して、脳梗塞とわかった。そして点滴による救急の治療がされたおかげで、後遺症もなく、綺麗に治るだろうと言われた。しばらく入院することになった。

鞠子は車を置いて来た公会堂までタクシーに乗り、車を取ってから、家に帰って、義父の着替えや洗面用具などを準備して病院に急いだ。急ぎ、入院の手続きをした。純一に電話して、かいつまんで事情を話した。家には美紅も帰って来ていたが、美紅が夕飯の準備をしてくれた。

明後日の仕事は休みたいところだが、休めないと思った。とりあえず、上司に電話して、事情を話した。しかし、もし、お義父さんの様子がもう大丈夫なら、明日電話してから明後日の仕事に来て欲しいと言われた。猫の手も借りたいのだろう。

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