【ARUHIアワード10月期優秀作品】『いつかわかればそれでいい。』森な子

 ゆうこちゃんと過ごす日々は穏やかだった。私が起きる頃には鈴木さんは既に仕事に行っているので、ねぼすけね、なんて呆れたように笑うゆうこちゃんのいれた妙に甘いコーヒーを飲みながらテレビを見た。
 二人でよく散歩にも出かけた。近所の人たちは私たちのことをどう思っていたのだろう。年の近い、若い女が二人、平日の昼間に仲良く出歩いている。大きな一軒家に住んで、一人の男の帰りを待っている。
 ある日、ゆうこちゃんは買い物に、鈴木さんは仕事に行っている時、訪問者がやってきた。基本誰がきても無視しているのだが(宅配便が来るから受け取ってね、とゆうこちゃんに念をおされている時は別だ)、あまりにしつこく何度も何度も鳴らし続け、しまいには苛立ったように重い扉を執拗にノックされてので、流石になんだなんだと思って重い腰を持ち上げた。
「なんですか、誰?」
 扉を開けた先にいたのは、小柄な女性だった。長くて黒い髪、気の強そうにつり上がった瞳は涙で濡れている。その人は私の問いかけに返事をするより前に、いきなり平手打ちを食らわせてきた。
 びっくりした。じわじわと痛みが沸き上がってきたかと思うと、少しずつ頬が熱くなっていく。唖然としている私に対してその女性は、「あんたのことはよく知ってるわ」と、刺し殺してやるとでもいうような、まさに般若のような形相でそう言った。
「私、お腹に子供がいるんです」
「はあ……そうですか」
「祐樹さんと別れてください。言いたいことわかりますよね?」
「祐樹さん?」
 出された名前が一瞬誰のことだかわからなくて、目を丸めた。数秒して、あ、鈴木さんか。そういえばそんな名前だったな。ていうか、子供できたの? ゆうこちゃんがいるのに? この人誰? と色んな考えが沸き上がってきて、それがなんだか可笑しくて、ちょっと笑ってしまった。笑った後に、あ、やべ、と思った。目の前の女は顔を真っ赤にして「何が可笑しいの!?」とキーキー響く声で叫んだ。
「あの、あなた私のことが誰だか、本当にわかってますか?」
「はあ? 祐樹さんの奥さんの、ゆうこさんでしょう」
 私がゆうこちゃんに間違われる日がくるなんて! のほほんとしていてしっかり者のゆうこちゃんと、気が強くて性格が悪くてだらしない私。この人は鈴木さんのことを知らないのだ。
いや、逆かもしれない。鈴木さんのことしか、知らないのだ。
「とにかく、あなたのせいで彼は苦しんでいます」
「苦しいって、鈴木さんが言ったんですか?」
 浮かんだ疑問をほとんど反射的に投げかけると、ぎろりと睨まれた。
「何をしているの?」
 その時、女の背後からひょいと顔をのぞかせたゆうこちゃんが、私には本当に美しく見えた。悪意のない、柔らかくて穏やかな表情で、両手に買い物袋を提げたゆうこちゃんは、怪訝そうに私たちを見た。
「あの、家に何か御用ですか?」
「え……」
「おかえり、ゆうこちゃん」
 私たちのやり取りを見て、女は顔を真っ青にした。全然知らない私のような女をぶん殴ってしまったのだから、当たり前だろう。
 可哀想だな、と思った。目の前の女が本当に哀れに見えて仕方ない。鈴木さんのことしか見えていない。けれど、痛いほど気持ちがわかる。私もそうだったから。
 鈴木さんは、暗い夜の海にぽつんと浮かぶ、いっそ暴力的に感じられるほど眩しい灯台の灯りのような人なのだ。そして、あの灯りを目指さなければいけない、あの灯りを見失ったら何も見えなくなってしまう、と思うと恐ろしくて、縋りつきたくなってしまう。
「ゆうこちゃん、この人私の友達なの。ね?」
「え……」
「そうなの? さっきなんだか、怒鳴り声みたいなのが聞こえたけど……」
「気のせいじゃない? 私たちちょっと出かけてくるね」
「え、ええ……それはいいけど。あなた、顔色が悪いみたいだけど大丈夫? 少し休んでいく?」
 ゆうこちゃんの本当に心配そうな問いかけに、女はたじろいだ。きっとこの家に来るまで、お腹の底でマグマみたいにふつふつと煮えさせていた感情を、目の前のこの穏やかな人にぶつけていいのかわからなくなっただろう。
 ややあって小さく首を振ると、そのまますたすたと歩き出したので、私は「じゃあね、行ってきます」とゆうこちゃんに片手を振って女の後を追いかけた。
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