アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた10の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 オレンジ色の温かいランプがともった小さな喫茶店に一歩入って、サトミはコートの雪をはらった。静かなジャズが流れ、キッチン横の暖炉の火がメラメラ燃えている。
「ほっ、落ち着くな」
 いつもの窓側の席に腰を下ろして、頬をほわっと緩めた。壁にかかった鳩時計を見やれば、子どもたちのお迎えまでたっぷり一時間ある。
 近くのコンビニで買ったインテリア雑誌を鞄から取り出して、テーブルにそっと置く。
「いらっしゃいませ。本日もフレンチローストブレンドでよろしいでしょうか」
「ええ、お願いします」
 一息ついた頃合いを見計らったかのようにゆっくり近づいてきた若いマスターに向かって、サトミは静かに一つ頷いた。

 毎朝四時に起きて、洗濯機のスイッチを押すことから始まる、気の遠くなるほど長い一日。
 大量の服を洗っている間に、朝食づくりと掃除をし、幼い二人の子どもたちを叩き起こして――。
 混雑した通勤電車に揺られてたどり着いた会社では、後輩たちの不満を汲み取り、ときに上司に叱責されつつ、淡々と目の前の仕事をこなす日々だ。
 もちろん、これであっさり終わるわけではない。騒がしい子どもたちに急かされながら夕食をつくり、掻き込むように食べ終えるなり、三人いっしょにお風呂に浸かってすぐさま寝かしつけと、止まることのないジェットコースターは超特急で日常を駆け抜けていく。

「ふうー、おいしい」
 サキはコーヒーカップを置いて、うっとりため息をついた。
 定時通りに仕事を終えて自分へのご褒美にここに立ち寄るときは、しゃきっと目を覚ます深くて濃いフレンチローストと決めている。とりたてて何をするわけでもないのだが、雑誌をぺらぺら捲りながら、淹れたての熱々のコーヒーを啜るひとときときたら!
 三十代半ばでバツイチ子持ちというしんどい現実をすっかり忘れさせてくれるのだった。
「こちらは、雪の日のサービスです」
 まっ白いお皿が、テーブルにすっと置かれた。フルーツタルトが一切れのっかっている。色鮮やかな果物がたっぷり盛りつけられていて、きらびやかだ。
「まあ、きれい」
「お客様が初めて来店された日も、大雪でしたよね」
「ええ」
 窓の外に視線を投げかけるマスターにつられるように、サトミも振り返った。

 離婚したばかりのあの日、東京でも珍しく雪がこんもり降り積もっていた。
 夕方になっても大粒の雪がとめどなく降り注ぐ中、家路を急いでいると、一軒の喫茶店が目に飛び込んできたのだ。
 ふと気づいたのは、雪に映える明るいオレンジ色のランプのためだろうか。その温かいあかりに引き寄せられるように、サトミは雪で濡れた黒い革鞄を抱き締めて、店内へ一歩足を踏み入れた。
 すると、不思議なことに、心に蓄積された悲しみや怒り、不安、そういった行き場のない負の感情が、丸ごとすべてゆるゆると溶けていくように感じられた。

「だいぶ顔色も明るくなって、本当によかったですね」
「おかげさまで」
 サトミはふと我に返って、にっこり微笑んだ。
 言われた通り、ここに通い始めてからというもの、以前よりも心の落ち着きをうまく保てるようになってきた気がする。
(マスターのおかげね)
 きりっとした瞳をまっすぐに見つめれば、サトミの熱い眼差しに耐えかねたのか、マスターは背筋をぴんと伸ばして丁寧にお辞儀をした。
「失礼いたしました。ごゆっくりどうぞ」
 キッチンの奥へ消えていく男の凛々しい後ろ姿を見るともなしに眺めながら、サトミは華やかなタルトをフォークで崩して、口にゆっくり運んでいく。
「うんっ、とってもおいしいわ」
 こんな大雪の日だ。他に客はだれもいなかった。サトミは目を輝かせながら、コーヒーとともにじっくり味わった。キッチンの隅から、マスターに優しく見守られながら――。

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