【ARUHIアワード9月期優秀作品】『あいつの長い髪は』町田 舜

 彼は、函館の短い夏と長い冬のことをよく語ったものだった。夏は海峡を渡る連絡船に乗ってかもめにえさをやり、冬はじっと港で凍える海を見る。本州の海は優しいけど、北海道の海は荒々しいんだ、と彼は隆夫に何回話したことだろう。
「夏には函館ではイルカが見られるの?」
 隆夫は訊いた。
「ああ、見えるとも。フェリーに引っ付いて、ずっと笑っているんだ。面白いだろう。イルカが笑っているなんて」
 短い夏、だとしてもだ。イルカの笑い顔の見られる夏は濃密な夏に違いない。それに、海を眺めながら、皮膚のもっと奥の方をじりじりと焼く心地よさは、何にも代えがたいものだろうな、と思う。  
 今度、必ず海へ行こう、と隆夫は決めた。有美とユカと海岸を三人で歩いて、たっぷり日焼けをしてやる。日焼けする、と有美に反対されてもだ。
 朝礼が終ると、隆夫たちはそれぞれのベルトコンベアーに配置される。全部で八レーンある。どのレーンで何を作るかはその日次第だ。キムチが早く終われば、福神漬けを援護に行ったり、たくあんが滞っていれば、そこに手伝いに行ったり、と縦横無尽に動き回る。要は、自分のやる気とさじ加減で、作業の効率を上げ下げできるわけだ。
 有美と隆夫は大根の浅漬けの列に並んだ。決められたグラム数になるように、測りに乗せてパックに詰める。大根がなくなれば倉庫に取りに行き、パックがなくなれば、また倉庫に取りに行く。倉庫からそれらがなくなれば、違うレーンへ移る。ごくごく単純なものだ。
 有美は白衣の中の華奢な肉体を、機敏に動かして働く。あの鶏のような体のどこにあんな力が備わっているのだろうか。九時から五時までみっちり働き、その後、彼女は夜の街に働きに行く。
きゅうりのピリ辛漬けが終わったところで、工場長の怒鳴り声が聞こえた。
「お前は、もう何年ここで働いているんだ? ぬか漬けの素を入れ忘れたら、なんでそれがぬか漬けになるんだ? え? 言ってみろ」
 青木のおじさんが小さくなってうなだれている。六十五にもなる老人が四十半ばの自分の子どものような奴に怒られている。二人は傍から見たらただの真っ白しろすけに見える。
「すいません。つい、うっかりしていまして」
「ったく。お前は。そういう、どんくさい奴とオレは働きたくないね」
 工場長がポリバケツを蹴る。よくある風景だった。昆布の出汁が床に飛び散る。
 従業員は何の反応も示さない。出汁の飛沫が、青木のおじさんのエプロンにもかかる。 
 青木のおじさんの背中が打ち上げられて間もないエイのようにぴくぴく動いた。彼は内側からあふれ出す怒りを必死に抑えているようだった。
「えへへ。また、やっちまったよ」
 青木のおじさんが例によってまたぶつぶつ言っている。
「気にすることないよ。忘れちゃいなよ」
 隆夫はうつむいた青木のおじさんに言った。
 昼休みに外に出た。別世界だ、と隆夫は思った。まず気温と匂いが違う。毛穴まで詰め込まれた便所のような漬物の匂いが体中から発散されて、代わりに、眩しい日差しに肌が焼かれる。今日みたいな暑い日には、本当は、素っ裸になって何時間でも体を焼いていたいな、と思う。海に泳ぎに行ったっていい。あの涼しい工場内よりもその方がよっぽど生きていると実感できるに違いない。
「今日、保育園にユカのお迎えに行ってやれない?」 
 入口の花壇の横で有美が屈伸しながら隆夫を見上げた。
「あの子、誕生日なの。あんたんちの子と祝ってやってほしいの」
 この間の誕生日の時、まだチャーリーは今より一回り小さかった。ポップコーンジャンプをしきりにやってユカを祝福していた。ユカはそれを見て大きく手を叩いたものだ。そして、チャーリーと追いかけっこをして疲れると、隆夫のベッドで眠りについた。有美が迎えに来たのは早朝だった。

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