【ARUHIアワード12月期優秀作品】『結婚記念日のプレゼント』吉岡幸一

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品をそれぞれ全文公開します。

「どうして納豆がないんだ」
 夫の太一は冷蔵庫のなかに首を突っ込んで探しながら言った。
「あら、買い忘れたみたい。あとで買っておくね」
 妻の美幸は焼いた朝食のパンを皿の上に乗せながら答えた。
「毎朝、欠かさず納豆を食べるのをわかっているだろう。朝、納豆をたべないと元気がでないんだよ」
「そんなことを言っても、忘れたものは仕方ないじゃない。一日くらい納豆を食べなくっても死にはしないわよ」
「買い忘れたことを棚にあげて、一日くらい食べなくてもいいだと……」
 冷蔵庫から顔を出した太一は乱暴に扉をしめると、美幸が焼いた食パンを立ったままかじった。
「それより昨日頼んでいたハガキを出してくれたのかな」
「ハガキって……。ああ、忘れてた。会社にいくときにポストに入れておくから」
「自分だって、忘れていたじゃないの。人のこと言えないんじゃないの」
「なんだ、ハガキくらい。どうせ何かの懸賞にだすんだろう。当たらないっていうのにさ」
「当たるかもしれないじゃない。納豆なんて食べたら終わりだけど、懸賞は当たるかもしれないっていう夢があるんだからね」
「くだらない」
「なんですって。くだらないのは太一のほうよ」
「朝から嫌な気分になった。結婚生活ってもっと楽しいもんだと思っていたんだがな」
 太一はぬるくなったコーヒーを一口飲むと、ゆるんだネクタイを自分で締め直した。
「私だって同じよ。妻は家政婦じゃないんだからね」
「結婚するんじゃなかった」
「なんでそんなこと言うの、今日は……」
 今日は結婚記念日だというのに。忘れているのね。
 美幸は言いかけた口を閉じると、背中をむけてコーヒーに口をつけるふりをして外をみた。かなしくて涙がでそうだった。
 食卓には春のやわらかな日差しが差しこんでいる。レースのカーテンの先には無数のビルの群れがみえる。朝早くから洗濯物を干している家庭もあれば、ベランダから夫や子供に手を振っている母親もいる。友達の千鶴が営むパン屋の赤い屋根の上にカラスがとまり、じっとゴミ捨て場を見つめている。
 ここはマンションの八階、去年の秋に35年ローンを組んで買った2LDKの住まいである。けして広くはないが都会の真ん中で若いふたりが買えるマンションはこれが精一杯だった。多少の無理はした。だが満足はしている。夫の通勤時間は短い方がいいし、美幸にしても友達がいるこの土地のほうが安心して暮らすことができる。
 ちょうど一年前の同じ日、ふたりは結婚した。桜が散り、そのしたから若葉が芽吹いてくる季節だった。
 太一とは短大を卒業して通うようになったテニススクールで知り合った。とくにテニスが上手かったわけではない。ただ太一はだれにでも優しかった。女性だけでなく、高齢の男性にも子供にもすべての人に対して親切であった。そんな太一に好意をもつのは自然なことであった。太一にしても美幸のことが気になっていたのだろう。いつしかテニススクールの帰りにカフェに寄るようになり、しだいにふたりは結ばれていった。
 まだ結婚して一年しかたたないのに、ずいぶんと前のことのように美幸は感じた。

 マンションの前で母親と一緒にパン屋を営む千鶴は、仕事の合間をみつけては毎日のように美幸は会いにきていた。ふたりは同じ高校短大と進み、一時期はテニススクールにも一緒に通うほど仲が良かった。千鶴もテニススクールに通う男性と結婚をしたが、現在は離婚をして、離婚する前に生まれた小学生三年生になる男の子を母親とふたりで育てている。「たんなる性格の不一致よ」と、離婚の理由を千鶴は話していたが、事実は元旦那の暴力が原因のようであった。
「なにしけた顔しているのよ」
 この日も千鶴は失敗したパンを持って昼過ぎにやってきた。

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